2016年春、創部当時より20年間に渡り佐野日大ラグビー部を指揮され
その後、部長としてラグビー部を見守っていただいた松島 誠先生が定年を
迎え勇退された。
創部25年の節目の終わりの季節のことである。
そんな折に、1枚の古い新聞記事が見つかった。いや、私達にとっては
奇跡的に、ある方のスクラップが残されていたのである。
平成2年(1990年)11月23日日刊スポーツ北関東版の記事である。
”ラグビー部誕生 佐野日大”の記事である。
4月に誕生したラグビー部は、まだ同好会
それでも40人の部員が集まり厳しい練習の中で秋には、20名が残ったそうである。
翌年部の昇格を目指し、関東大会出場をまず目標にした。
松島 誠元監督は、まずラグビーの楽しさを教えたかったそうである。
これらの記事を読んでいると、藤掛 三男現監督になった現在に於いても
向いている方向は、変わりなく不思議なほど受けつがれていることが
読み取れるのである。
先日終えた、関東大会 部員達の少しでも上達したい思いで4度目の出場を果たした。
戦った2試合共に最後まで五分の接戦を演じ、ノーサイドの笛が吹かれるまで
只管ゴールラインを目指した諦めない姿を堂々と見せてくれたのである。
冬の季節から春の季節 確実な進化を見せている。
夏を充実したものとし、秋には真に”黒豹・赤豹”と呼ばれるものたちとなってほしい。
それこそが、ラグビー部を守り見守っていただいている方々への感謝・努力を
示す唯一のことである。
戦いは五分(ごぶ)の勝利をもって上(じょう)となし、七分を中となし、十分(じゅうぶ)をもって下(げ)となす。
五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕(おご)りを生ず。
※画像を2度ほどクリックすると拡大し読むことができます。
創部時より、同好会でありながら栃木県高校ラグビー界に喜びをもって迎えられ
大きな記事として新聞紙面に取り上げていただいた。
それは、26年の歳月が流れ当時を知らぬ私たちにとって起源を知ることは、大切なことに思え
大きな驚きと喜びです。
紙面の中で、佐野日大ラグビー部OB達が、振り上げている拳は、引き継がれる後輩達へ贈られる
エールなのかもしれない。
当時、記事担当された【田口辰】記者に感謝・・・
その後、部長としてラグビー部を見守っていただいた松島 誠先生が定年を
迎え勇退された。
創部25年の節目の終わりの季節のことである。
そんな折に、1枚の古い新聞記事が見つかった。いや、私達にとっては
奇跡的に、ある方のスクラップが残されていたのである。
平成2年(1990年)11月23日日刊スポーツ北関東版の記事である。
”ラグビー部誕生 佐野日大”の記事である。
4月に誕生したラグビー部は、まだ同好会
それでも40人の部員が集まり厳しい練習の中で秋には、20名が残ったそうである。
翌年部の昇格を目指し、関東大会出場をまず目標にした。
松島 誠元監督は、まずラグビーの楽しさを教えたかったそうである。
これらの記事を読んでいると、藤掛 三男現監督になった現在に於いても
向いている方向は、変わりなく不思議なほど受けつがれていることが
読み取れるのである。
先日終えた、関東大会 部員達の少しでも上達したい思いで4度目の出場を果たした。
戦った2試合共に最後まで五分の接戦を演じ、ノーサイドの笛が吹かれるまで
只管ゴールラインを目指した諦めない姿を堂々と見せてくれたのである。
冬の季節から春の季節 確実な進化を見せている。
夏を充実したものとし、秋には真に”黒豹・赤豹”と呼ばれるものたちとなってほしい。
それこそが、ラグビー部を守り見守っていただいている方々への感謝・努力を
示す唯一のことである。
戦いは五分(ごぶ)の勝利をもって上(じょう)となし、七分を中となし、十分(じゅうぶ)をもって下(げ)となす。
五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕(おご)りを生ず。
※画像を2度ほどクリックすると拡大し読むことができます。
創部時より、同好会でありながら栃木県高校ラグビー界に喜びをもって迎えられ
大きな記事として新聞紙面に取り上げていただいた。
それは、26年の歳月が流れ当時を知らぬ私たちにとって起源を知ることは、大切なことに思え
大きな驚きと喜びです。
紙面の中で、佐野日大ラグビー部OB達が、振り上げている拳は、引き継がれる後輩達へ贈られる
エールなのかもしれない。
当時、記事担当された【田口辰】記者に感謝・・・